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​神社について

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神社について

 西暦800年初期に創建された後、古くは大市郷(上大市・下大市(樋ノ口)・

段上・門戸・高木の五ケ村)の総鎮守として、

現在は上大市・下大市・樋ノ口の三ケ村の産土神として

「大市の八幡さん(おいちのはちまんさん)」の愛称で親しまれてきました。

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​御祭神

御祭神

祭 神

誉田別尊

[ほむだわけのみこと] 

誉田別尊(応神天皇)は、八幡様として広く信奉されています。

応神天皇は第十五代の天皇であらせられ第十四代仲哀天皇と神功皇后の皇子です。古くから武神、文教の神として崇敬され、武士の総領源氏も守護神としてあがめていたため、八幡神は瞬く間に武将の信仰を集め、武神として日本各地で祀られるようになりました。応神天皇は霊験あらたかで、特に開運厄除の神・勝負の神として崇敬されています。

相 殿

大日靈女尊

[おおひるめのみこと] 

天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)の別称です。

大神はこの他に、天照大神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)、日神(ひのかみ)、大日靈女尊(おおひるめのみこと)、などまだまだ沢山の名前で奉られていますが、今日では、天照大神と記してアマテラスオオミカミと訓むことが一般的です。当社では、大日靈女尊の称え方でご本殿で八幡様と並べて奉られております。

相 殿

天児屋根命

[あめのこやねのみこと]

​高天原で専ら祭祀をつかさどる興台産霊神(こととむすびのかみ)の子で、天照大神の侍臣として仕えていたといわれています。春日大社の御祭神であられます。

合 祀

豊間戸命

[とよまどのみこと]

​門の神様であられます。

当社では明治時代に合祀いた​しました。

あ・れ・こ・れ~「勧請」について~

八幡を名乗る神社は、全国の神社の三分の一を数えると言われています。八幡神社の御祭神は誉田別尊であられ、大分県の宇佐八幡宮が本宗であります。京都の男山に皇室鎮護のため、宇佐から勧請されたのが石清水八幡宮であり、源頼朝が石清水八幡宮のご分霊を奉じて鎌倉に勧請したのが鶴岡八幡宮です。そして当大市八幡神社も鶴岡八幡宮と同様に石清水八幡宮から勧請された由緒ある神社であり、当地域近隣の八幡神社は当社から勧請されたものが多くあります。

 「勧請」という言葉は、日常会話では聞きなれないかもしれませんが、「神の分霊を請じ迎えてまつること」を指します。また、ご分霊とは、神様のみたまの分かれのことですが、一神社のご分霊をあちらこちらに分けてお祭りすると、元の神社の神様のお力が減りはしないかと疑問を持つ方がいらっしゃるのかもしれません。しかし、ご神霊というものは、これを仰ぐ人の量(人数)と質(熱意)とに比例して霊力を発揮せられるもので、 古く鎌倉幕府が定めた貞永式目という規則の第1条にも,「神は人の敬いによって威を 増し、人は神の徳によって運を添ふ。」と記されています。つまり、ご分霊を受けておまつりする崇敬者が増せば増すほど、元の神社のご神霊の力も増大せられるもので、決して元のご神霊の力が分散し減少する心配はありません。       

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由緒

 その細部経緯は詳らかではありませんが、大同元年(806年)に石清水八幡宮より勧請せれたと伝えられており、少なくとも千二百年以上の歴史を有することになります。

 社殿は平安時代末期の治承・寿永の乱(源平の戦い)により罹災し、滅失したと伝えられており、その後安土桃山時代に入り、当地の領主で後に姫路城主となった池田輝政公が家臣の中村主殿介に再建を命じ、慶長十五年(1610年)に再建されました

 当時建てられた本殿が現存する本殿であり、組物の細部手法は17世紀初頭の神社本殿建築の特色を顕著に現しています。特に、浜縁の半高欄は数少ない遺例で室町時代の特徴をよく表していることから、昭和54年(1979年)に西宮市指定重要文化財、昭和55年(1980年)に兵庫県指定重要文化財に指定されています。

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池田輝政公との繋がり

 池田輝政の名を聞くと、国宝であり世界遺産である姫路城をまず思い出されるのではないでしょうか。池田輝政は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、それぞれの家臣となり、この三英傑から高く評価された数少ない武将です。そして、徳川家康に仕えていたときに初代姫路藩主に抜擢され、姫路城の大改修工事を行い、あの美しい外観を築き上げました。

  その輝政に縁のある神社がなぜ西宮に、と疑問に思われる方もおられるかもしれません。輝政の父・恒興は織田信長の重臣であり、あの有名な清洲会議にも出席したことで知られます。清洲会議にて行われた領地の再配分で、恒興は大坂・兵庫・尼崎の12万石を拝領し、次男である輝政を尼崎城主(当時の西宮地方を含む)としました。

 その後、恒興が美濃大垣城主となり輝政も美濃池尻へと移りますが、尼崎に郡代としてやってきた建部氏を輝政が後見したと伝わっています。 つまり輝政はこの地を去った後も影響力を残し続けていたと言え、当地とも大変縁深かったようです。

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 御神木(大楠)

 境内奥に歩みを進めていただくと、一際目立つ雄大で荘厳な姿の大木が現れます。これは本殿再建記念として池田輝政公によって植樹されたとされる樹齢400年超の大楠で、西宮市の天然記念物の指定を受けています。地域を見守る御神木として崇められ敬われるとともに、「大市の大楠(おいちのおおくす)」として親しまれ、当社のシンボルにもなっています。

樹高約30m、枝は東に約15m、南北に約25m張り出しており、生き生きとする様は圧巻で、息吹を感じるほどの距離感で見上げた姿は格別です。

あ・れ・こ・れ
〜樹齢400年超の御神木を次の百年につなぐプロジェクト〜

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 近年、台風などの風雨による落枝が顕著となったことから、「樹齢400年超の御神木を次の百年につなぐ」プロジェクトを立ち上げ、樹木診断及び樹勢回復のための剪定作業を行うべくクラウドファンディングにてご支援を募りました。御神木を未来につなげたいという我々の想いに対して、氏地の方々に加え、市外、県外、さらには海外からと予想を上回る多数のご賛同とご支援を賜り、無事プロジェクトを達成することができました。

 この度、支援者の方々から寄せて頂いた「街や街に住む人々を見守る御神木を守り繋げてほしい」という想いを未来へとつないでいくため、400年超の間、守られてきた御神木という財産を私たちも引き継いでいきたいと考えております。これからも御神木には末永く、この雄大な姿で、この神社を、そしてこの地域を見守りくださり、また、御参拝の皆様の心を癒し続けていただけるものと私たちは確信しています。

 また、同プロジェクトの支援金を活用し、より多くの御参拝の方に御神木をより身近に感じていただくため、大楠の根を傷つけない形で間近でご観覧いただけるようボードウォークを設置いたしました。当社の月次祭に合わせた毎月一日、十五日とその他祭礼日にはボードウォークを開放しております。御神木の威容に直接触れ、その息吹と生命力を肌で感じていただければ幸いです。是非ご参拝ください。

由緒
池田輝政
御神木
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